世界文化遺産「北口本宮浅間神社」は武田信玄も造営・再建に関わった
2013-05-26T18:05:46+09:00 2013/05/26
北口本宮富士浅間神社は山梨県の富士吉田市にあり、富士登山道の吉田口の起点となっています。
由緒や来歴が書かれている神社の社伝によると、第12代景行天皇の子「日本武尊(やまとたてるのみこと)」が旅の途中、ここにある「大塚丘」に立ち寄り富士山を遥拝(ようはい・・・遠くから拝むこと)し「北方に美しく広がる裾野をもつ富士は、この地より拝すべし」という言葉を残したことからここに大鳥居を建てたそうです。
その後、天応元年(781年)に富士山の噴火がおこります。
このときの甲斐の国の大名である「紀豊庭朝臣」が卜占(ぼくせん・・・占いのこと)を行い、延暦7年(788)に大塚丘の北方に社殿を建立して浅間大神を移し、大塚丘のほうに日本武尊を祀ったとのことです。
神社の敷地内は杉や檜で覆われています。この地一帯は古来から「諏訪の森」と呼ばれ、当初は長野県の諏訪湖に総本社を置く「諏訪神社」があったとされています。
現在は「木花開耶姫命(コノハナノサクヤビメ)」を主祭神として浅間神社なっています。
本殿は元和元年(1615年)に領主鳥居土佐守成次が建立、貞享5年(1688年)に社殿が造修されました。
その後一時荒廃していたものを享保18年から元文3年(1733~1738)にかけて、富士講の指導者「村上光清」が私財を投げ打って拝殿・手水舎・神楽殿・随心門を再興したそうです。
社伝によると武田信玄も社殿の造営に関わっています。
主な社殿は、仁和3年(887)より、藤原当興、北条(左京太夫)義時、武田信玄、浅野(左衛門佐)氏重、鳥居(土佐守)成次、秋元(越中守)富朝、秋元(摂津守・但馬守)喬朝、らによって造営が重ねられました。
武田信玄は永禄4年(1561)に再建したそうですが、現存する中でも最も古く「東宮本殿」として現本殿の東側に残されています。
一説によると、戦国の歴史上有名な上杉謙信(長尾景虎)との間で繰り広げられた北信濃の領土争い「川中島の決戦」の勝利祈願のためにおこなったそうです。
現在ではこれらほとんどが国の重要文化財に指定されています。
- 北口本宮浅間神社への行き方
- 幻想的な雰囲気の参道
- 日本最大級の大鳥居
- 随神門・神楽殿・手水舎
- 拝殿・幣殿・本殿
- 東宮本殿・西宮本殿
- 末社
- 太郎杉・治郎杉・夫婦桧
- 諏訪神社
- 登山道入口の石像
- 参照先・関連記事
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北口本宮浅間神社への行き方
大きな地図で見る
所在地は山梨県富士吉田市上吉田5558。
山中湖と川口湖の間の138号線沿いに面しているからすぐわかります。
「武田信玄公戦勝祈願所」と書かれています。
鳥居は138号線にほとんど面しています。
吉田口登山道はこの奥にあります。
幻想的な雰囲気の参道
参道の両側には樹齢数百年ともなる大きな杉と檜の樹が立ち並んでいます。
道を挟むように並んだ灯篭は富士山の溶岩「玄武岩」でできています。・・・これも富士講講員からの奉納でしようか?
入口にある記念碑。
仁王門礎石
この「礎石(そせき)」は参道の中ほどにあります。
礎石とは礎・土台となる石のこと。
昔ここに仁王門が有ったのですが明治政府が出した「神仏分離令(神仏判然令)」により撤去されています。
今ではこの礎石だけが残されています。
角行の立行石(かくぎょうのたちぎょういし)
角行とは富士講の開祖の「長谷川角行(藤原角行)」こと。
角行は静岡県富士宮市の人穴で厳しい修行し、白糸の滝や山梨県の忍野村の忍野八海などへ巡礼していました。
これは角行が69歳のとき吉田の地を訪れ、富士山霊を遥拝(ようはい)し、酷寒の中を裸で30日間石の上に爪立ちするという荒行を行った石です。
ちなみに「遥拝(ようはい)」とは遠くから拝むことです。
日本最大級の大鳥居
北口本宮浅間神社の大鳥居は、全国にある木造鳥居の中では最大級。
神社によれば、高さは18m、幅が11m、柱の直径は最大1,2m。材質は檜やもみ、杉を使用しています。
この鳥居は60年に一度改修工事を行います。
ちょうどその60年に一度というのが今年で、1年をかけて腐食しているところを直したり支柱を取り換えます。
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随神門・神楽殿・手水舎
鳥居の奥には立派な「随神門(ずいしんもん)」。
随神門とは、悪霊が神域に入らぬよう門番の神を配置しているもの。
中は見ませんでしたが右に「櫛岩窓神(くしいわまどのかみ)」左に「豊石窓神(とよいわまどのかみ)」が鎮座していると思います。
神楽殿
「神楽殿(かぐらでん)」とは、神楽を演奏する建物のこと。
手水舎
「手水舎(てみずや・ちょうずや)」とは、ここに参拝しに来た人が、拝礼する前に手を洗い水で口をすすぎ身を清める場所です。
拝殿・幣殿・本殿
「拝殿(はいでん)」とは、本殿の前に位置し、参拝者が拝礼を行う社殿のこと。
幣拝殿は元文4年(1739)に村上光清師が建立しています。
幣殿と本殿
「幣殿(へいでん)」とは参拝者が幣帛(へいはく)を献上する社殿。
幣帛とは神前にお供えするもののことです。
「本殿(ほんでん)」とは祭神が安置されている社殿。
元和元年(1615)鳥居土佐守創建。
祭神は「木花開耶姫命(コノハナノサクヤヒメノミコト)」「彦火瓊瓊杵命(ヒコホノ二ニギノミコト」「小山祗神(オオヤマヅミノカミ)」。
- 木花開耶姫命・・・日本神話の女神。彦火瓊瓊杵命の妻。
- 彦火瓊瓊杵命・・・天照大見神の孫。
- 小山祗神・・・山、海、酒造の神。軍神・武神としても信仰されている。
東宮本殿・西宮本殿
これは武田信玄が造営したといわれる「東宮本殿」。「造営(ぞうえい)」とは社殿や宮殿を建てることをいいます。
祭神は「天心日高彦彦火火出見命(アマツヒコヒコホホデノミコト)」。
神武天皇の祖父で、ニギギと木花開耶姫命の三男。日本神話「山幸彦と海幸彦」に登場します。
東宮本殿前にはよく整備された参道があります。
左にある樹には「七色もみじ」と書いてありますから、紅葉の時期には赤や黄色、緑の葉を付けた姿を見ることができるでしょう。
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西宮本殿
文禄3年(1594)浅野左衛門佐建立。
浅野左衛門佐とは一時期、甲斐・都留郡を支配していた人物。
祭神は天照大神・豊受大神・琴平大神。
- 天照大神(アマテラスオオミカミ)・・・日本神話に登場する女神。皇室の祖神・日本民族の総氏神。
- 豊受大神(トヨウケノオオカミ)・・・食物・穀物を司る女神。日本神話に登場する。
- 琴平大神(コトヒラノオオカミ)・・・四国讃岐の金刀比羅宮の神様。
末社
「末社(まつしゃ)」とは、神社の境内・境外にある小規模な神社。その神社に祭神と関わりがあったり特別な由緒がある神社のこと。
ただし、「摂社(せつしゃ)」ほど深い繋がりはない。
ここには「青麻社」「稲荷社」「八幡社」「恵毘寿社」「神武天皇社」「三殿社」「三神社」「下諏訪社」「風神社」「子安社」「日之御子社」「池鯉鮒社」「倭四柱社」「神武天皇社」「日隆社」「愛宕社」「日枝社」「天津神社」「天満社」「祖霊社」「国津神社」、といった末社が祀られています。
これは境内の右側にある末社。
日之御子社、池鯉鮒社、倭四柱社、日枝社、日隆社、愛宕社、天津神社、国津神社、天満社が祀られています。
大鳥居の右側にある稲荷社。
本殿の裏側には恵比寿社。
祖霊社は登山道の起点にある。
神馬舎。
太郎杉・治郎杉・夫婦桧
境内には樹齢1000年にもなる杉と桧の御神木が維持管理されています。
これらは富士吉田市指定天然記念物になっています。
杉は「富士太郎杉」と「富士次郎杉」。
富士太郎杉は拝殿の東側にあります。樹高は30m、露出根張り21m、幹周8,2m。
もう一つの次郎杉は本殿の裏側にくっつくように生えています。樹高30m、幹周7,8m、根張り17,2m。
この角度からでは分かりませんが、横から見ると2本の桧が根のところで合わさっています。
また、地上12mの高さのところでも結びついているのです。
そんなことから「夫婦桧」の名が付いたそうです。
樹高33m、幹周7,65mあります。
諏訪神社
諏訪神社は境内の右側に摂社として鎮座しています。
8月の26・27日に、富士山の噴火を鎮める祭りである「鎮火際」が、北口本宮冨士浅間神社とその摂社である諏訪神社の祭として行われています。
そのとき使う御神輿は門の両側に納められています。
諏訪神社の前の杉も大きなもので、樹齢は300年以上、樹高は42m、幹周9,4mあるそうです。
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登山道入口の石像
登山道の入口には石像が建てられています。
これは「名取先生」という富士講を広めた功労者らしい?!
彫られている字は苔でわかりませんでしたが、この格好からしておそらくこの石像も富士講関連のものだと思います。
登山道入口の小御岳神社遥拝祠。本社は5合目に鎮座しています。
小御岳は富士山より前にあった山として知られます。この小御岳と当時の富士山が噴火を繰り返してできたのが今の富士山だそうです。
富士山五合目付近は天狗が支配していたことで「天狗の庭」と呼ばれます。
その天狗は「小御嶽太郎坊正真」という方で、冨士山小御嶽神社に道開きの神様として祀られています。