富士山最古の社「富士御室浅間神社」は河口湖畔にある
2013-05-27T18:00:07+09:00 2013/05/27
富士御室浅間神社は山梨県にある河口湖の湖畔にあります。
社伝によれば、文武天皇3年(699年)に藤原義忠により富士山2合目に奉斉されたと伝えられます。
奉斉(ほうさい)とは神様を祀ることを言うそうです。
708(和銅1)年に祭場の形を造り、720(養老4)、807(大同2)年に雨屋・社殿が創建されましたが、富士山の噴火により焼失してしまいました。
その後、再興はされたのですが、天徳2年(958年)村上天皇により、氏子の祭祀の利便のため河口湖の南岸に里宮が創建されたそうです。
現在ある本殿は、慶長17年(1612年)に徳川家の家臣の鳥居成次(とりい なりつぐ)という武将により建てられています。
その後4回大きな改修が行われ、昭和48年(1973年)に富士山二合目から里宮に移築されたそうです。
現在の社殿は明治22年に再建されています。
戦国時代は武田家三代に渡り崇敬(すうけい)されました。
崇敬とはあがめうやまうこと。それを表しているように、武田信玄公直筆の安産祈願文や、多くの古文書が維持保管されています。
この安産祈願文には、無事安産が確認されたときは「船津の関所を開放する」と書かれています。
古文書は、信虎、信玄、勝頼の武田家三代及び家臣、徳川の臣の印判状、許定書、指令状等が保管されているそうです。
そして、中世には山岳信仰「修験道」と結びつき、近世には長谷川(藤原)角行を開祖とする「富士講」とも結びつき、より発展していきました。
富士御室浅間神社・メニュー
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富士御室浅間神社への行き方
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住所は山梨県南都留郡富士河口湖町勝山3951。
国道139号線からは河口湖大橋に向かっていき、「乳ヶ崎北」の交差点を左折します。
逆の御坂から来る場合は右折ということになります。
左折して5~10分程道なりに神社の鳥居が見えてきますのですぐ分かります。
囲い沿いに進む又鳥居があり、ここを入って行くと駐車場に行くことがでいます。
参道には桜並木が
正面の鳥居から入ると参道沿いには桜の木が立ち並んでおり、トンネルを作っています。
恐らく、開花時期は花見客で賑わいを見せるのだと思います。
朱色の本宮本殿
参道を進んでいくと左に一際目を引く朱色の建物が見えてきます。
これが「本宮本殿」。桃山時代の特徴をもった建造物で、構造は一間社入母屋造り、向拝唐破風造り、屋根は檜皮葺形銅板葺。国の重要文化財に指定されています。
御祭神は「木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)」。
天照大見神の孫(天孫)、「瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)」の妻。
碑の横にあるのは御神馬の像か?
重要文化財としての解説が記されている立看板。
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神門・里宮
神門(随身門)にはお約束の随身像。
随身(ずいしん)とは、平安時代以降、貴族が外出したときに警護で同行する官人のこと。
今で言うSPみたいのものでしょう。
随神とも書かれますが、これは神を守るために安置されている像のこと。
門守神(かどもりのかみ)、看督長(かどのおさ)、矢大神・左大神とも言います。
里宮
どことなく日本昔話に登場するような雰囲気がある里宮。
里宮とは、山上にある奥宮への参拝の便宜のために設けられた村里に置いた宮のこと。
この里宮は、958年(天徳2年)村上天皇が、崇敬者の礼拝儀祭の便を図るためここに建立したそうです。
現在の建物は明治22年に再建されています。
正面から見た里宮の拝殿。
建物の横に廻ってみると奥には本殿があります。
そして本殿の奥は河内湖湖畔。
手水舎・高砂
手水舎。
参拝者が拝礼の前に身を清めるもの。
高砂とは日本の伝統芸能「能」の作品のこと。縁結びや和合、長寿の象徴とする「相生の松」によせて長寿と夫婦愛を表現したおめでたい能です。
相生の松は兵庫県高砂市の高砂神社が有名。
神社開創から間もなくして、二神が現われ「我神霊をこの木に宿し世に夫婦の道を示さん」というお告げをしたことところから、相生の霊松および「尉(じょう)・姥(うば)」の伝承が始まったそうです。
尉(じょう)・姥(うば)は「高砂人形」のモチーフになったり、像として建てられてもいます。
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「武田信玄公御祈願所」彫られた石碑が建てられています。
右にある道は河口湖畔に続いています。
末社・境内社
末社とは置かれている神社と関わりがあったり特別な由緒がある神社のこと。
参道の横と里宮の奥のほうに幾つもの末社が置かれています。
撮影したものはその一部です。
天神社・雷神社。片山社。
国津神社・別天神社。石割社。
稲荷社。