富士山信仰の歴史はここに行けば分かる・「御鎮座千二百年記念資料館」
2013-05-25T18:00:53+09:00 2013/05/25
富士浅間神社(東口本宮浅間神社・須走浅間神社)の正面入口右側には神社の社務所があります。
その社務所の2階は、1200年にわたる富士山信仰の歴史が詰まった関連資料を保存展示している記念資料館が併設されています。
入場は無料(今の所)ですから、富士浅間神社に行った際は是非ここにも立ち寄ったみることをお勧めします。
今まで興味が無かった人でも、自然遺産ではなく文化遺産に選ばれた理由がここに行けば分かると思いますよ。
御鎮座千二百年記念資料館・メニュー
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入館受付は1階社務所で
正面入口を入ると右側に樹齢100年「エゾヤマザクラ」の大木。
その裏側に社務所と資料館があります。
1階にある受付で御札や御守りの配布を扱っています。
また、2階の資料館を見たいようであればここの窓口が受付になっています。
ここに置いてある富士浅間神社のパンフレットを見ると、一般入館料は200円・20名以上の団体150円と書いてありましたが無料で入ることができました。
ちなみに、休館日は不定休、開館時間は午前9時30分から午後4時30分となっています。
展示スペースは増えている?
2階へはエレベーターと階段があります。
エレベータで上がるといきなり資料がガラスケースで展示されています。
パンフレットを見ると展示室は右側の部屋にあるんですが、展示数が増えたのか左側のスペースにも展示されています。
展示室の資料は写真撮影禁止
左の奥が記念資料館です。
展示室の前には「写真撮影禁止」と書かれた紙が貼られていました。
念のため、2階で挨拶した社務所の方に確かめて見た所、「今回は特別にいいですよ・・・」とのことでしたのでお礼を言って何枚か写真を撮らせてもらいました。
歴史ある資料の数々に圧倒される
まず初めに目を引いたのは資料館前の壁には浮世絵のような絵。
どうやら、当時のお土産品みたいですね。
明治41年(1908)に御殿場新橋の「勝又宇三郎」という人が発行したと書かれています。
須走・吉田・富士宮・御殿場の登山道に鎮座している浅間神社や吉田口の小御巌神社、頂上の奥の宮、御殿場や田子の浦からの富士山を錦絵で描いているそうです。
これは登山案内図と写真集。
当時の登山の様子や登山道にあった神社が写されています。
この写真を見るだけでも、いかに富士信仰の歴史は古くからあるのかが分かるような気がします。
展示室に入り一際目を引くのは「富士講の登山用具」。
ここに展示されているのは当時の富士講講員が使用していた登山用具とそれを身に付けた写真です。
いかに昔のこととは言え、物見遊山の観光目的ではないことが写真から伺えます。
これは「登山雨合羽」。・・・雨は通さないんでしょうか?
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御師神殿
この神殿は須走の宿坊「武蔵屋」にあったののだそうです。
御師はこのような神殿の前で、講中の求めに応じて祈祷をしていた。ということが書かれています。
「御師(おんし)」とは、特定の神社に所属し、参拝者の案内や宿泊等の世話をする人のこと。
今で言う「コンシェルジュ」の役目も果たしていたということでしょう。
食行身禄尊師像
食行身禄(じきぎょう みろく )とは富士講の指導者のこと。本名は「伊藤伊兵衛」。
開祖「長谷川角行」の教えを継ぐ講祖。
信仰の基礎を築いたのは人穴で修行を重ねた「長谷川角行」だが、「食行身禄」が、加持祈祷の流れを貧民を対象に心の在り様を説いたり、当時の幕府や治世を批判しました。
そして食行身禄は自らの命を縮めることで、人々を救済しようと富士山7合5勺(現在の8合目)にある烏帽子岩で断食行を行い入滅したそうです。
入滅とは、単純な死の事ではなく、「死ぬことで悟りの境地に入る」といったような意味のこと。釈迦の死や高僧・宗祖が死んだときに使われる仏教用語です。
その後身禄の弟子たちが「身禄同行」を唱え、江戸市中に教えを広め、またたく間に富士講は江戸中に広まりました。
食行身禄は1671年~1733年という62歳の生涯ですが、死後は身禄の娘、門人により富士講は増え、「江戸八百八講」と呼ばれるほどになったと言われます。
ピンボケしてますが資料館には「食行身禄」の像が祭られています。
御山神輿
お祭りのときに担がれるものだと思います。
宝永噴火の足跡
宝永噴火とは宝永7年(江戸時代中期)に起きた富士山の噴火。歴史上最後の大噴火です。
噴火したのは富士山の東側の斜面。
今で言う「宝永山」にあたり、3つの火口が形成されています。
これも写真がボケてしまいましたが、噴火のときに焼けた杉の木と、噴火時に埋もれた鉄鍋が展示されています。
この他に宝永の大噴火のとき人々に貢献した、「伊奈半左衛門忠順公」についての解説や須走村が崩壊したときの図等が展示されています。
武田勝頼の朱印状
字が難しくて良く解らないのですが、富士宮市にある富士山本宮浅間大社は、その昔、武田勝頼が社殿の修造を行い、豊臣秀吉も社領寄進の朱印状を発布しているそうですから、この神社とも関係があるのでょう。
麻布三元講
麻布三元講のことが記された記事と、登山のときの持ち物も展示されています。
当時の麻布は商人や職人が多く、典型的な富士講の講員層を示していたそうです。
昭和まで講は盛んだったのですが、講員と高齢化や昭和62年の富士塚の解体とともに解散されたと書かれています。
富士塚とは富士信仰に基づき、富士山に似せて作った塚や山のこと。
溶岩や既存の丘や古墳を利用したものがあったそうです。
これらの他にもまだまだ多くの富士信仰関連の資料が展示されています。
そして、一通り目を通していくと「富士講」が信仰の中心にあったことが伺えます。
現在は富士講は存在していませんが、富士山を信仰する気持ちだけは今も受け継がれているような気がします。