世界文化遺産の「村山浅間神社」入口からは駿河湾が一望できる
2013-05-19T17:48:10+09:00 2013/05/19
「村山浅間神社」は、鎌倉時代の末期位より盛んになる、富士山の修験道(山篭りによる悟りの修行)の中心にとなった神社で、富士山村山口登山道はこのころから江戸時代の末頃まで修験者(山伏)たちが管理していたと言われます。
このころは「興法寺(こうほうじ)」とも呼ばれました。
現在の住所は静岡県富士宮市村山字水神151になります。
富士山村山口登山道は現在の富士宮登山道(富士宮ルート)の6合目からのこと。
村山浅間神社からの登山道は「大宮口新道」が完成した後、90年余りの間災害等により道が特定することができないほど損壊してしまったそうです。
ここからの登山口は神社の西側にまだ「六道坂」というものが残されており、「発新門(発心門)」、「札打場」といった地名と「札打場」の大欅(おおけやき)も存在しています。
現在は表富士登山道となる富士宮登山道(富士宮ルート)から、標高約2400mにある新五合目まで車で行くことができるという、最も高い所まで車で行ける登山道です。
村山神社の入口少し手前からは富士市と駿河湾が一望できる絶景。
ただ今日はもやがかかっているため視界はよくありません。・・・残念!!
- 村山浅間神社への行き方
- 村山浅間神の鳥居前
- 境内には樹齢数千年らしき杉が
- 水垢離場と護摩壇
- 富士山興法寺大日堂
- 拝殿本殿・大銀杏、境内に設置されている碑など
- 高根総鎮守
- 獰猛そうな狛犬
- 登山道の跡
- 参照先・関連記事
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村山浅間神社への行き方
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村山浅間神社へは東名インターから約30分程度で行くことができます。
東名インターで降りて西富士道路(139号バイパス)を富士宮方面に向かい、2・3分したら左側にある「広見インター」で降り、大渕街道(72号線)を上がり続け突き当りの460号線を左に曲がり5分ほど行けば右側に見えます。
ただ、「富士山本宮浅間大社」や「山宮浅間神社」を先に廻ってからだと少し分かりにくいかも知れません。
そのため、富士宮にある富士山の表口登山道からの行き方を紹介しようと思います。
下の写真は東名・新東名で降りて西冨士道路を富士宮に向かって30分程来たところにある「登山道入口」交差点です。右側に「マルハン」左に「すき家」があるのですぐわかります。
この交差点を左に下がっていくと「富士山本宮浅間大社」。右に上がると「山宮浅間神社」です。
ここから村山浅間神社に行くには右に上がります。
上がっていくと途中に「山宮浅間神社」の鳥居が見えてきます。
それも通り過ぎていくと右側に「ENEOS]のガソリンスタンドがある「篠坂交差点」がありますから、ここを右に曲がります。
道なりに15~20分位行くと469号線のT字路にぶつかります。
ここを左に曲がって少し行くと「村山浅間神社」の立て札が出てきます。
ここを左に曲がれば目的地はすぐ見えます。
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村山浅間神の鳥居前
鳥居前には神社の歴史を簡単に説明してある看板と保存樹林の説明が書かれています。
ここを上がっていくと境内です。
境内には樹齢数千年という位の杉がたくさん残されています。
富士宮市の歩く博物館コースになっています。
Dコースということですから他にも幾つかあるのでしょう。
境内には樹齢数千年らしき杉が
境内は2段になっています。
右側を見ると、太い杉が何本も・・・
この杉は静岡県の天然記念物に指定されています。
高さは47m、目通りは9,9mになっています。この目通りとは樹の幹を人間の目の高さで計った太さのこと。地面からは1,2mです。
樹齢は推定で1000年です。・・・いつもこの手の看板を見ると思うのですが、いつ1000年と表記したんでしょうか?20年前からあるとしたら1020年!?
なおかつ「御神木」にも指定されています。
平成元年に指定されていますので比較的最近です。
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水垢離場と護摩壇
水垢離(みずごり)場とは、神様に祈願する前に水で体を清める場所。
ここは富士山に入山するときに、村山の法印大先達の指導で、大日堂東方奥にある「竜頭ヶ池」の聖水を引いた滝で体を清め、不動明王の守護を願った場所だということが書かれています。
ちなみに「村山の法印」とは、修験者の集落であった村山の地の僧の位のことだと思います。
不動明王の像は水垢離場の奥にある。
護摩壇
護摩壇(ごまだん)とは、護摩を焚く炉を置く壇のこと。
護摩とは、本尊の前に壇を設け護摩木と呼ぶ薪に願いを書いて、それを燃やすことで不動明王に祈るという密教の秘法。
案内看板の説明書きには下記のようなことが書かれています。
「村山の法院が、富士山に入峰修行のため入山する前夜「旧暦7月21日」と修行を終え村山に帰山した「旧暦8月16日」の昼に、「役の行者」の修法により、国家の安泰と天下泰平・五穀豊穣を祈願して護摩を焚いた聖壇。村山修験独特の修法で、当日は四界の信者・善男善女が寄り集まり境内を埋め尽くした。」
周囲には塔や石碑が幾つも点在いしています。
「富士八大金剛童子」の石碑もある。八大金剛童子とは密教でいうところの不動明王の使者である八人の童子のことらしい。
富士山興法寺大日堂
上の境内には興法寺大日堂があります。
富士山興法寺についての歴史を調べて見ると概ね以下のようになると思います。
富士山興法寺は富士山の村山修験を行うときの中心になった寺のこと。
興法寺は浅間大菩薩を祀る村山浅間神社と大日如来を祀る大日堂、末代を祀る大棟梁権現社という神仏両道の堂社で構成され、村山修験の道者坊(大鏡坊・池西坊・辻之坊)である「村山三坊」によって管理されました。
1707年(江戸時代中期・宝永4年)に起きた「宝永大噴火(歴史上富士山最後の大噴火)」により、村山登山道を含めた興法寺全ての建物が全壊。その後何年かかけて復興されたようですが、1868年に制定された神社と寺院・神道と仏教を区別させる「神仏分離令」により、村山山浅間神社と大日堂が分離させられ、修験者(山伏)は還俗(げんぞく)させられました。・・・還俗とは俗人に戻ることをいいます。
これにより大棟梁権現社は違う場所に「冨士大神社」として祀られ、富士山興法寺としての役割は終焉を迎えたとされます。
現在、拝殿奥に大棟梁権現は「高根総鎮守」として祀られています。
室内に入ると入口右側の壁にはこのような表記が貼られています。
「文武天皇の大宝元年(701年)「役ノ小角」が勅命により富士山中水精ケ岳より、浅間神社を現在地に奉遷された時に建立し、富士山仏化の拠点としたのが始まりで、久安年中に至り、高僧「末代上人」が村山修験を確立し大日如来を祭り、登頂活動の拠点とした。京都聖護院の直系寺であった。」
「 碑伝木(ひでぎ)」とは、峰入り(修験道の修行)の証に姓名や峰入年月日を記して納めたもの。
恐らく、厳しい修行に行くことを記した札みたいなものということでしょう。
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拝殿・本殿と大銀杏、境内に設置されている碑など
正面には鳥居があります。
建物は一部改修されているようですが、最初に建築されたのは相当古そうです。
木が邪魔ですが、拝殿と本殿はこんな感じになっています。
大銀杏
境内のほぼ中央にある大銀杏。
静岡県指定の天然記念物。高さは16m、目通り9,2mと書かれています。
樹齢は推定300年以上ということらしい。
これは環境省が発行している「日本の巨樹・巨木林 東海版」に書かれているみたいです。
御神木にも指定されています。
碑や祠・記念樹等
境内には幾つかの碑。
苔がこびりついているのでほとんど文字は見えません。
外国人で初の富士登山をした「ラザフォード・オールコック」一行から、150年にあたる2010年に「オールコック富士登山150周年記念碑」が建てられた。
日英グリーン同盟の記念樹。
日英同盟の締結が2002年に100年を迎えたため、英国大使館がイングリッシュ・オーク(ならの木)を植樹したそうです。
これは何処かを改修したときの記念碑だろうか?
・・・?
末社の祠か?
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高根総鎮守
本殿の右奥には「高根総鎮守」が設置されています。
鳥居の奥にはかなりの数の階段があり、その奥に祀られています。
「氏神社」として祀られているようです。
氏神社とは、同じ地域の人たちが共同で祀る神様である「氏神様」を祀る神社のこと。
看板にはこのような説明書きが書かれています。
「村山修験の開祖「冨士上人末代」は、「役ノ行者」修法を継ぎ幾百回の登頂を成し、頂上に大日寺を建て、山岳仏教の基礎を固め、自ら「大棟梁権現」と号し、村山の地にて即身仏となって当山の守護神となった。当社はその霊を祭り、氏神社として氏子の信仰厚く、高嶺総鎮守と称する。」
かなり長い階段。
ただ手すりが設置されているので年配者でも歩きやすい。
これが大棟梁権現の祠。
獰猛そうな狛犬
境内に登る階段の両側にはお約束の「狛犬」が据えられています。
しかし、狛犬ってこんなに怖い顔をしていただろうか?
狛犬というより、ほとんど化け物・・・
登山道の跡
神社の敷地の左側には山に続く道があります。
その両側が駐車場が用意されています。
駐車場の入口には当事の村山口登山道と思われる石碑が設置されています。